「酷い、酷い…っていわれてるけど、そんなに酷いのか??」
そういう言い方が失礼なのは分かってるけど、いかにもラジー賞を獲りそうな映画なんて逆に観てみたい。そんなこんなで観にいった映画のタイトルは…
『キャッツ』
(C)2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.
今回はコチラの作品を鑑賞して抱いた感想等のレビュー記事となります。
これより先はネタバレなしで作品紹介や評価を、その後はネタバレありで感想をお話ししていくので鑑賞前の方はご注意ください。
ブロガー“ソレガシ”のプロフィールはこちら。
※当ブログでは物語のオチを知りたい方向けに簡潔なネタバレを記した項を設けています。開閉式で、すぐには目には入らない仕組みとしていますが、閲覧は各自の責任でお願いします。
この記事の目次
- 映画『キャッツ』について
- 主なキャスト
- ストーリー
- ラスト、結末のネタバレ
- 評価
- 感想(ネタバレあり)
- メインコンテンツは面白かった
- ジェネリック・キャッツ
- 酷い見た目を何とかしよう
映画『キャッツ』について
- 監督、製作、脚本
トム・フーパー - 原題
Cats - 製作
2019年 イギリス・アメリカ合作
原作となったのはイギリスの詩人T・S・エリオットの詩集。
それを『エビータ』などで知られるアンドリュー・ロイド=ウェバーがミュージカル化し、大ヒット。このたび、トム・フーパー監督が映画化したというわけです。
トム・フーパー監督といえば『レ・ミゼラブル』などのミュージカル映画のほか、『英国王のスピーチ』などの作品でも有名な監督ですね。
僕としては世界で初めて性別適合手術を受けた人物、リリー・エルベにフォーカスを当てた『リリーのすべて』が好きだったな。
また本作『キャッツ』には『E.T』や、『ジュラシック・パーク』等の代表作で知られるスティーブン・スピルバーグが製作総指揮としてちゃっかり名を連ねてます。
主なキャスト
- ヴィクトリア
フランチェスカ・ヘイワード - オールド・デュトロノミー
ジュディ・デンチ - グリザベラ
ジェニファー・ハドソン - マキャヴィティ
イドリス・エルバ
主演のフランチェスカ・ヘイワードは現在、英国ロイヤル・バレエ団で活躍中のプリンシパル(最上位のダンサーのこと)
鉄道猫のスキンブルシャンクス役を演じたスティーヴン・マクレイもそうなんだそうですが、いわばガチのキャスティングになってますね。
ちなみにこれは豆知識なんですが、オールド・デュトロノミー役のジュディ・デンチにはミュージカル版『キャッツ』をケガのために降板した過去があるそうで。
本作では彼女が演じるはずだったグリザベラを映画『ドリームガールズ』での演技が「主演のビヨンセを食った」とも言われるジェニファー・ハドソンが務めています。
ストーリー
人間によって、 ロンドンの裏路地にあるゴミ捨て場に捨てられた幼い白猫ヴィクトリア。
そこではマンカストラップやミストフェリーズなど、多種多様な性格、様々な見た目をした“ジェリクルキャッツ”たちが歌や踊りを繰り広げていた。
今宵は長老猫のオールド・デュトロノミーによって“新しい人生を生きることを許される、たった1匹の猫”が選出される特別な夜。
猫たちを誘拐し、自らが選ばれんとする凶悪な猫マキャヴィティが暗躍する中、ヴィクトリアは他の猫たちと共に舞踏会の会場へと足を踏み入れていくのだが…
ラスト、結末のネタバレ
映画『キャッツ』のオチが気になる、話を軽くおさらいしたい方は下のボタンをどうぞ。
ラスト、結末の簡単なネタバレ。
ポチッとすると下に開きます。

大食漢な猫、あまのじゃくな猫、泥棒を働く猫など、様々な猫たちとのふれあいを重ねていったヴィクトリア。
今回、長老猫のオールド・デュトロノミーに“たった1匹の猫”として選ばれたのは、ヴィクトリアがその身を案じていた猫グリザベラだった。
元は華やかで美しい猫でありながらも、今ではその美貌を失い、他の猫たちの侮蔑の対象となっていたグリザベラ。
ヴィクトリアはそんなグリザベラを優しくオールド・デュトロノミーの前へと誘うと、彼女は高らかに、そして力強く、今や過去のものとなった幸せを思う歌を歌い上げたのだ。
グリザベラはその後、古びた劇場に設営されていた気球に乗り、幸せそうに雲の上の世界へ。かの卑劣な猫マキャヴィティはその気球に必死にしがみついたが、結局は落ちていった。
朝日が登り、猫たちの時間は終わりを迎える。オールド・デュトロノミーはヴィクトリアの、純粋で、高潔な心をたたえ、「あなたは真のジェリクル・キャッツよ」と彼女に伝えるのだった。
※あくまで要約です。映画にはこんな文章では表しきれない「味」や「魅力」が多くあるので、鑑賞前の方はぜひ一度、本編も観てみてください。
評価
『4/10点』
SNSでの評価には正直、尾ひれがついてる。
これがそこまで酷いものとは思えない…いや、良くもないんだけど。
ストーリー
1.5
配役・演技
2.5
演出(音楽/映像など)
2.0
企画・アイデア
2.0
感想(ネタバレあり)
メインコンテンツは面白かった
SNSなどでは、出る感想、出る感想のほとんどがカオスな大喜利オンパレードと化していた映画『キャッツ』。
本当は観るつもりでなかったのだけれど、友人に誘われて、更には地雷と呼ばれる映画ほど観たくなるB級好きの血も騒いだために観にいってみました。
すると、巷の酷評に身構えていた僕としては少し、拍子抜け。これがそこまで酷いものとは、とてもじゃないけれど感じられなかったんです。
鑑賞後、『キャッツ』に寄せられた「中身はほとんど猫の自己紹介じゃん」という意見に対し、「それがメインコンテンツ」と答えた方のブログを読んだのだけれど、
僕もそういうもんだと思って観ていたし、何なら僕の中に「性格の異なる猫たちのバリエーション豊かな躍動が観られたらOK」という考えがあったからなのかも。
そんな視点で観た時、歌手のジェイソン・デルーロは、自前の高音ボイスを用いて、舞台版「キャッツ」よりもアバンギャルドそうなラム・タム・タガーを演じていて、
レベル・ウィルソンは、ロマンス・コメディ映画、ナチス支配下のドイツ…どんな世界線に行っても失わない“らしさ”で、怠慢なジェニエニドッツの、変に野性的(?)な面を、ゴキブリの捕食という行為の中でユーモラスに表現していた。
終盤、“天上に向かう、たった1匹の猫”としてグリザベラがフォーカスされ始めると、途端に、それ関係で役回りのある猫がせめぎ合って、窮屈な展開になったようには思うけれど、
ここぞの場面で、力強く、時にか細い声で、グリザベラの心情に沿った「メモリー」を歌い上げたジェニファー・ハドソンはまさしく本作のベストアクトだった。
つまり、そんなこんなで僕は、それなりに『キャッツ』の“メインコンテンツ”を楽しめたような気がするのだけれど、

それでも評価を星4/10に据え置いたのには、本作が舞台以上のジェリクルを感じることのできない、ジェネリックなものに感じたから…って理由が大きいんです。
ジェネリック・キャッツ
jewelry+miracleでJellicle(ジェリクル)。本作に出てくるジェリクルキャッツとは、端的に言っちゃうと、自由に、したたかに、猫らしく生きている猫のことらしい。
舞台版「キャッツ」が世界中で人気を博しているのを見るに、多くの人々がこの猫たちの奇跡を見て、宝石のように輝く思い出を作ってきたんだろうと考えられるし、
僕からしてみたら、素晴らしいものと感じたその心、その体験自体も、jewelryのようで、miracleな、“ジェリクル”なもののように思えちゃう。
だから、ここでは、ワクワクやドキドキすらをも“ジェリクル”と捉えて話していくけれど、残念なことに、僕はこの映画『キャッツ』において、おそらく舞台版を超えるほどの“ジェリクル”を体験できなかった。
おそらくというのも、これは僕が舞台版「キャッツ」を未鑑賞だからなんだけれど、鑑賞中に「ここ、舞台ならいいんだろうなぁ…」と感じるシーンが多くて、
結局、ジェリクルというか、「あぁ、ジェネリックな体験をしてしまったなぁ…」という思いだけが、鑑賞を終えた僕の心に残ってしまったんです。
確かに映画なりの良さもあるにはあって、例えば、映画はイメージの可視化が簡単にできて、更には空間を360度ぐるりと見せられるから、パフォーマンスの幅は広い。
だけれど、そんな舞台にはない特性があるのに、トム・フーパー監督はキャラクターを写す時にはアップばかり。その癖、ダンスシーンではすぐに視点を変えちゃう。
オールド・デュトロノミー誘拐時、ミストフェリーズの背後では他の猫が彼の帽子の中を興味津々に探っていたのだけれど、案外、こういう遊び心みたいな描写が、本作にはもっと必要だったように思います。
猫って好奇心旺盛な生き物で、かと思うとそっけない。僕は猫のそういうところが好き。このシーンは、この映画の世界が本当に猫たちの暮らす世界なんだ…と感じさせてくれてイイ。だから、もっとワイドな画面でそれを堪能したい。
ダンスシーン。先に話した映画の特性的に、ついつい視点を変えて、猫たちの色んな表情を見せたくなったのかもしれないけれど、やっぱり、彼/彼女たちが一堂に会して踊っているときくらい、その一体感が伝わるように撮ってほしい。
僕はこのジェリクル、もといジェネリック・キャッツ。見せ方による失敗が、副作用として出ていたようにな気がしてならないんです。
酷い見た目を何とかしよう
最後に、これ、本当はメイン級に語りたい余談となるのだけれど、猫たちの見た目に関してはもうちょっと頑張れるところがあったように思います。
ふわっ、もふっ、ぶくっ…な感じがまるでない。人間の体のラインに、耳と、しっぽだけ付けたような、まるで全身タイツ猫。
もはや、岩井志麻子だらけで怖い。きょうてぇ。ぼっけぇ、きょうてぇ。
…まぁ、丸顔の俳優が演じた猫はいいんです。フランチェスカ・ヘイワードのヴィクトリアとか、テイラー・スウィフトのポンバルリーナとかはまだ猫っぽさがある。
だけれど、演じるのが骨格の異なる男性ともなると違和感の塊で、ロビー・フェアチャイルド演じるマンカストラッブとかは面長すぎて人感がすごい。
イドリス・エルバ演じるマキャヴィティが自身のコートを脱ぎ捨てるシーンでは、あらわになる姿が猫の自然な姿と知っていても、少しドキッとさせられちゃう。そんなドキッは求めてない。
逆に求めてる人には、『ザ・マウンテン 決死のサバイバル21日間』という、雪山での遭難からはまだ助かってもいないのに、ちょっと見つけた山小屋にて、ケイト・ウィンスレットと共に自然な姿になっちゃう彼が見られる映画がオススメなんだけれど、
まぁ、それはどうでもよくて、結局のところ、長毛の猫にしろ、短毛の猫にしろ、猫っぽさは毛の風合いが作ると僕は思う。
舞台版「キャッツ」の様子を覗いてみたら、顔のサイドにウィッグを付けて、猫らしいシルエットを作っていた。
だけれど、映画『キャッツ』ではCGでそのシルエットを作り出そうとして、ハビエル・ボテットが演じてもおかしくない、クリーチャー猫を生み出してしまった。
いわゆる手作りの温かみって、大事。いつか、それすらもCGが作り出せるようになるかもしれないけれど、それまではCGに頼らないアプローチも必要だなと感じました。
ということで今回はここまで。本記事に対するご意見、ご感想はコメント欄によろしくお願いします。ではでは。