こんにちは、とあるです!
本日お話しするのは、
詩人や歌人、小説家としても知られる寺山修司さんが監督を務め、
俳優、三上博史さんのデビュー作でもある映画、
『草迷宮』
(C)株式会社紀伊國屋書店
です!!!
尚、今回の記事では、今まで載せていた予告動画がありません…。
もとはフランスのプロデューサー、ピエール・プロンベルジェさんが製作したオムニバス映画の一つであり、のちにひとつの作品として日本で公開されたものの、動画がのこっていないんです…。
すみません…。
この記事の目次
- ストーリー
- ネタバレ
- 感想&レビュー
- 鮮やかな過去、くすんだ現在。
- お前をもう一度妊娠してやったんだよ。
- 寺山ワールド
- 最後に
ストーリー
15歳の少年・あきらは、母が時々口ずさむ手毬歌に魅かれていた。
母の死後、ある日彼はその手毬歌探しの旅に出る。
その歌と同じものは見つからなかったが、旅の終わりに辿り着いたのは…。
キネマ旬報社 データベースより
ネタバレ
※この項を飛ばして感想&レビューが読みたいという方は、
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感想&レビューを読む
※本作は青年時代のあきらが旅をする場面と、少年時代のあきらが体験したことの回想、そして夢や空想が入り混じった構成となっています。
そうした理由から話の流れが難解であるため、本項では時系列順に直しました。
少年時代のあきら(三上博史)は母(新高恵子)とふたりで暮らしていました。
ある日、裏の土蔵に踏み入ったあきらは、そこで千代女という色気違い(今でいう色情狂)に出会います。
好奇心から千代女に近づくあきらはそのまま彼女に抱かれてしまいますが、どこからともなく母の歌う手毬唄を聞こえてくると、その場を逃げ出すのでした。
家に帰ったあきらは母に千代女のことを尋ねると、母は千代女の過去を話したうえで、もう二度と近づかないよう釘を刺します。
それに対しあきらは、千代女が土蔵から出てきて自分をさらう心配はないのかと問いました。
母は、
「大丈夫ですよ。あきらにはお母さんがついていますからね。」
と答えました。
しかし、その後も好奇心を抑えつけられないあきらは、またも土蔵に入っていきます。

家にあきらの姿がないことを不審に思った母は、息子が千代女に会いに行ったことを察し連れ戻すと、木の幹に縛りつけて厳しく折檻をします。
そして千代女が近づいてこないおまじないとしてあきらの体に手毬唄の歌詞を書き連ねるとそのまま町へ行ってしまうのでした。
置いてきぼりにされたあきらは以前観た光景を思い出していました。
浜で見た入水する脱走兵と女性。
打ち上げれた女性の肌は海水に濡れて、てらてらと光っています。
その後、縄をほどかれたあきらは夜、隣で眠る母を見ます。
仰向けに寝るその姿にあきらは、入水した女性の姿を重ね合わせていました。
あきらの母に対する異常な愛が発芽した瞬間でした。
それから時が過ぎ、青年となったあきら(若松武史、映画撮影時は武表記)
この時、母は既に亡くなっていましたが、生前に歌っていた手毬唄がどうにも頭にこびりついて離れません。
しかもそれは断片的な記憶であり、続きの詞については一切思い出すことが出来ずにいました。
母の姿を追いかけるように唄の続きを探し求めるあきらは、各地を放浪するうちに手毬をつく動作をする少女を見つけました。
彼女を追っていくと、ある屋敷にたどり着きましたが、屋敷の主人は自分一人しか住んでいないと言います。
とりあえず一晩泊めさせてもらったあきらが夜中に目を覚ますと、またしても手毬をつく少女がいました。
彼女を追って、屋敷の奥深くへと入っていきます。
パッと開けた部屋にいたのは妖怪の群れ。
部屋の中央には母の生首が置いてありました。
あきらはそのような姿になった母に近づこうとしますが、妖怪たちが阻み隠してしまいました。
妖怪たちの妨害を振り切り、襖を開けたその先に母はいました。
先ほどまでの生首姿ではなく、妊婦姿で現れた母はあきらにこう言います。
「ほうら…お前をもう一度妊娠してやったんだよ。」
母の高笑いが部屋中に響き渡る中、あきらは目を覚ましました。
この夜の出来事は全て夢であったのです。
あきらは手毬唄の詞の続きを求めて、再びあてのない旅に出るのでした。
感想&レビュー
鮮やかな過去、くすんだ現在。
本作はあきらの少年時代の回想と、現在である青年時代がまるで正確な時系列を隠ぺいするかのように入り混じるのですが、その二つには映像の色について違いがあります。
少年時代は鮮やかな色で、青年時代はセピアで描かれるのです。昔の思い出をセピアで表すことは多いですが、それを逆転させたのには何の意味があるのか。
それはあきらにとって愛する母と過ごした日々が今も忘れられぬものであり、その母亡き今、生前歌っていた手毬唄の歌詞を追い求めることしかできない現在を無意味なものと捉えていることの表現ではないかと思います。
セピアではありながらも、あきらの心情が色濃く描かれた手法のように感じました。
お前をもう一度妊娠してやったんだよ。
物語は青年となったあきらが、死んだ母の歌っていた手毬歌の続きの詞を求めて旅をするというものですが、それはラストでも変わらないんですね。

何も成し遂げてはいないし、近づいてもいない。
母に対する恋慕の呪縛は尚も解けずに、あきらは自らの人生を母の影を追い続けることに費やすのです。
夢に現れた母の
「ほうら…お前をもう一度妊娠してやったんだよ。」
という言葉は、
臍帯を通し繋がるという肉体的な面での一体化や、母の庇護下に入ることで得られる愛など精神的な面での一体化を望むあきらの心理が夢に投影されたものであり、
抑圧された願望を持ったまま、旅を続けるあきらは、
叶わぬ愛の迷宮に迷い込んでしまったのだと解釈しました。
寺山ワールド
ファンからは寺山ワールドと名づけられ親しまれている世界観は、本作でもいかんなく発揮されていて、
終盤、毬をつく謎の女性にいざなわれ、屋敷に入り込んでしまったあきらはそこで妖怪の群れに化かされる不気味な体験をします。
(C)株式会社紀伊國屋書店
このなんとも言えない奇妙な空間を観て自分は、
筒井康隆原作、今敏監督のアニメ映画『パプリカ』を思い出しました。
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『パプリカ』には何者かによって植え付けられた誇大妄想狂の夢を見る博士が、命を宿した無生物と共に行進をするシーンなどがあります。
そこに平沢進さんの曲『パレード』が加わることによって、奇々怪々の現象に一層の不気味さがプラスされていました。
本作では手毬唄などのわらべうたや、「もういいかい、まぁだだよ。」と言った遊びの詞がBGMとして静かに流れます。
しかし妖怪屋敷のシーンでは今までとはうってかわって、ヒステリックな音色のヴァイオリンと「テンテンテマリー、テンテマリー」と言うはやし立てるようなコーラスが響きます。
あぁ、やばい…壊れてる…。
観ていて、ついそう呟いてしまったほどの世界観を『パプリカ』より30年近く前に寺山修司監督が成し遂げていたことに驚きです。
最後に
この映画、正直ネタバレを書くの苦労しました…。
どうにも話がややこしくて…w
好き嫌いの別れる作品のように感じますし、その複雑さを苦手に思う方もいるかもです…。
でもこの独特な世界観を味わうだけでも楽しめる作品になっていると思うので、興味のある方はぜひ、ご自分の目で一度観てみてください!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
同監督が出した長編小説『あゝ、荒野』を菅田将暉が演じた作品もあるみたい。
そっちも観てみたいなあ。